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台湾に残る日本の痕跡「桃園神社」(3)


2016年1月16日

台湾に残る日本の痕跡「桃園神社」(3)
台北駅から急行電車で約40分。桃園市にある桃園神社跡は台湾で唯一、77年前の姿が残る貴重な神社跡です。

台湾で唯一、昭和13年創建当時の姿を今も保っている桃園神社


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▲外国の地にあっても、ひと目で日本建築だとわかる複雑でなおかつ精密な木造建築技術

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▲神社としての機能を失って70年、未だ威風堂々としたたたずまい。台湾人による整備のおかげなんです

現在、桃園神社は桃園忠烈祠と名前を変えられ、元にあった日本の神々を排除して、中華民国に関わって亡くなられた方々を祀る場所になっています。拝殿だった部屋の中にその祀られている方々の名前の書いた位牌がびっしり並べられ、本殿の方にもいくつか並べられています。
桃園市の公式サイトには桃園祠忠烈が紹介されていて、誰が祀られていて、どんな人物なのか詳しく紹介されています。その数なんと277柱。その「忠烈祠烈士姓名清冊」を読むと、興味深い名前が数名あります。
拝殿の中の説明の張り紙ではこの人の名前が見当たらないのですが、真ん中が空欄になっていてもしかしたらそこに入るのかもしれません。公式サイトの名簿の一番最初に書かれている鄭成功です。
台湾の歴史をかじった事のある人なら一度は聞いた事があるかもしれません。台湾では知らない人はいないといってもいいでしょう。彼はいったい何者なのでしょうか??

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▲拝殿には中国風に書かれた扁額がたくさん掛けられている。これがあるだけで日本式の建築物が随分エキゾチックな雰囲気をだしてます

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▲拝殿跡。中央には賽銭箱。左右の部屋に位牌を納めている部屋がある

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▲未来永劫、この世に残す」「このうえない忠誠心」の文字の奥には、祀られている一人ひとりの名前が書かれた位牌が並んでいる


台湾のヒーロー、鄭成功

鄭成功とは、実は母親が日本人なのです。
彼の父は中国が明朝の時代、福建を本拠地としてた海賊で、貿易などもしていたようです。1624年の江戸時代初期、日本では韃靼(だったん)と呼ばれていた地域の満州族の後金(のちの清朝)が明朝を滅ぼそうとしている時代、朱印船貿易などで長崎にしばらく滞在していた父・鄭芝龍と平戸で知り合った田川松との間に生まれました。明朝の一大事に、父は故郷福建に家族で戻り、満州族と戦う事に……。父の死後、青年になった鄭成功は父の意志を継ぎ、清朝に滅ぼされた明の再興の為に発起します。しかし清の勢いに鄭成功は大陸を離れ、台湾に逃れて再起をはかりますが、その時代の台湾はオランダ人が支配していました。大勢力を引き連れた鄭成功は、約40年間台湾を支配したオランダ人を追い払う事に成功しました。そして台湾は鄭成功の時代に入ります。この時に多くの福建の人々が台湾に移住をしています。今の台湾の中華系の人々はこの時の明の末裔ともいえるのではないでしょうか。
台湾で政権を樹立した鄭成功ですが、その年に39歳の若さで急死してしまいます。その後は鄭成功の兄弟が政権を担いますが、清のしたたかな戦略で内紛が起きたり一つにまとまらず、鄭氏の時代もわずか23年で終わります。
その後鄭成功の話は江戸時代の日本にも伝わり、日本人を母に持つ異国のヒーローということで、「国性爺合戦」という近松門左衛門作の浄瑠璃が大阪で流行り、その後歌舞伎にもなりました。父鄭芝龍は日本で暮らしている間、宮元武蔵の流れを汲む二刀流を学んだという話もあります。二刀流の鄭成功の肖像画が確かにありますが、父から息子に二刀流が受け継がれたのでしょうか……。歴史好きにはわくわくしてしまいそうなエピソードです。
しかし、「国性爺合戦」の話の肝は清朝に反旗を翻した日本人の血が流れる中国の英雄というところです。
台湾や中国ではオランダを降伏させた英雄ということで有名らしいですが・・・。
台南市には鄭成功と母の田川松を祀った延平郡王祠があります。この延平郡王祠は日本統治時代には開山王廟とよばれ、日本も鄭成功の功績をたたえて元々あった廟の建物をそのまま開山神社として正式に登録しました。後になって日本式の拝殿と鳥居を付け足しましたが、後の中華民国政府によってそれは取り払われてしまいました。また、長崎県の平戸にも鄭成功廟があります。日本が戦後、中華民国と国交がまだあった時の1963年に台南の延平郡王祠から分霊し建立されました。また、近くの漁港には彼が生まれ育った旧居が保存されています。鄭成功は日本でも親しまれているんですね。

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▲国魂、英烈千秋、国家に尽くした人々の魂を鎮める場所。日本の靖国神社と同様、国は違えど国家に尽くした人々への気持ちは世界共通

何の因果か日本と深く関わり、台湾を支配したもう一人の人物……

そういえば台湾での初代総統・蔣介石も、鄭成功と境遇が少し似ています……。蔣介石は清代に日本留学し、陸軍にも所属してて日本通としても知られています。そんな彼は異民族が支配した清朝打倒のための孫文と共に辛亥革命に関わり中華民国を立ち上げました。その後は中国大陸の統一をめざして毛沢東共産党と内戦を繰り広げていましたが、共産党勢力に追い込まれ、台湾に逃げることになりました。そして共産党による中華人民共和国樹立。敗戦で台湾を去る日本と入れ替わるように蒋介石が台湾で政権を担い、生まれ故郷奪還の為に再興をはかるのでした。

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▲中華民国35年の文字が彫られている。西暦1946年をさす

幻の国高山国、そして高砂族とは

鄭成功の少し前の時代、日本で天下統一を果たした豊臣秀吉は、台湾に「高山国」というのが存在するとして日本に朝貢させようと台湾に書状を送った事があります。しかしその当時、台湾を統治する勢力はなく、もちろん「高山国」も存在しなかったのです。明朝の支配下でもなく、オランダによる支配もまだの時代、多くはポリネシア系の台湾原住民といわれる山岳地帯などで狩猟生活を営む人々が住んでいたのです。この日本からの使者の台湾でのばつの悪さを想像すると、思わず笑みがこぼれそうです……。

日本統治時代、台湾原住民の総称は「高砂族」と名づけられました。その名の由来は諸説あるのですが、その昔台湾の玄関口だった「打狗山」(現高雄)の現地の音から日本では「たかさんこく」や「たかさくん」と表記したり、漢字では「高山国」と書いて「たかさご」と読むなどしていましたが、「高砂族」命名は縁起がよさそうですね。
ちなみに「高雄」は日本人が「打狗」の現地の発音に近い「高雄」に改名しました。

桃園神社に祀られている日本人とは?

大変興味深い事に本殿烈士と書かれた祀られている方々の説明の張り紙に、花村一郎、花村二郎の日本人と思われる名前が二人書かれてます。桃園市公式ページで調べてみると、この2名は民国19年(1930年)に事件を起こしたリーダーで、その後自殺しているようです。実はこの二人は台湾原住民である高砂族の日本人名なのです。
なぜ、この二人が桃園神社に祀られているのでしょうか? では、次回。

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▲ここに祀られている中華民国関係の方々のリスト。本殿の真ん中が空欄だが・・・

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▲本殿跡の室内にも位牌が並ぶ。本殿跡ということでこの中には特別な人が入っている。鄭成功、日本人名二名もこの中だ

旧日本の痕跡 台湾

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